浜友会ブログ 第5回 長井邦子の『街道を行く』東海道膝栗毛 ~ No.1(プロローグ)~

長井邦子の『街道を行く』東海道膝栗毛 ~ No.1(プロローグ)~

皆さんこんにちは〜
今日は私の『街道を行く」東海道膝栗毛のお話をさせていただきます。
私が街道歩きをするようになったのは川崎支社に転勤になった時です。
折しも2011年3月11日の地震で自宅に帰れなくなり非常に心細く帰宅困難者になりかけ、支社から自宅まで地図を見始めたことから始まりました。川崎から横浜まであるくにしても途中からではもったいない、しからば始まりは日本橋からと⋯旅行会社のツアーに参加、月1回の歩きで2年半もかかってしまいました。もうすでに何年も経っていることもあり殆どが忘れてますが、今回のお話で部屋の隅からパンプレットを出し読み返し少しつつ思い出してまとめてみたいと思います。

東海道は日本橋を起点とする五街道の整備をしたのは1601年江戸幕府を開いた徳川家康で、宿場や一里塚などが作られ53ヶ所の宿場が設置されました。まずは出立の日本橋、起点の「日本国道路元標]は橋の真ん中にうめこまれていますが、車の往来が激しく近づくことができません。遠くから眺めるばかりです、でも橋の袂に復元ポイントが有りました、また橋の欄干の「日本橋」の文字は徳川慶喜の書だそうです。


旅人たちの姿も多く書き込まれた「東海道五十三次絵」を描いたのは歌川広重、昔永谷園のお茶漬けを買うと浮世絵カードが一枚づつ入っていた記憶がありました。
歩いていると実際の街中、自然の中の風景の描かれている場所もありました。
京(京都)から江戸に下る街道の看板表記は漢字、逆に京に上る看板表記はひらがなです、江戸の人は漢字が読めなかったのでしょうか?
昔の人は健脚ですね、一日十里(1里=4km)を歩いていたそうで、コンビニもなく、公園もトイレもなく自販機もなく着替えもなく、凄いです!!
道中私は水分を取らなかったため軽度の熱中症になったり、足にマメをつくったりと大変でしたが、昔の人々の暮らしや、江戸時代の事などを学ぶことが出来て楽しんで歩きました、
また京に上る街道の思いが浮かんだら描いてみたいです。

はここまでで~す
さあ出発!! 次回はいよいよ日本橋を出発します

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